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ドライビング Miss デイジー



パクリ企画しりとり第3弾 映画しりとりは合計121作のノミネートがありました。


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第80弾はドライビング Miss デイジーです。

全米で大HITして1990年のアカデミー賞を受賞した作品であるが、俺の中では人種差別が未だに根強い米国社会の偽善がよく表れていると同時にこの時代からアカデミー賞自体の存在意義が俺の中ではまったく権威のないモノになったのは事実である。素人の映画ファンで5年に一度も映画館に足を運ばななくなったおっさんが、アカデミーを見放しても別に、ハリウッドは痛くも痒くもないだろうが80年代後半までは、とにかくアカデミー受賞、ノミネート作品は必ず観に行ったりビデオを観たり必ずしていたが、もうやめた時期でもある。映画や音楽は必ずしも批評家や映画会社の役員に評価されるのがいいわけではなく、評価するものでもないというのが俺の持論だ。ただ売れるモノに関してはなんらか理由があるというその事実のみだけである。

人種差別が今なんかより遥かにあった1940年代から70年代にかけてのユダヤ系の白人知識層の富裕層のおばちゃんとお抱え運転手のアフリカンの心の触れあいをテーマにしてるのだが、こういう話(原作は戯曲)が事実あったとしても相当脚色しているような気はするのだ。

ただ米国南部ではKKKなんかはアフリカンだけではなく、ユダヤ人も差別しているという現実を叩きつけている部分は俺たちには想像を絶するモノだとは感じる。

3,4年前に簡単に学ぼう世界史って文庫の中で米国の歴史をサラッと書いていたがその著者が米国の成り立ちの初期の記述をする中である研究書の写真を観て吐き気がしたそうだ。その写真とは18,19世紀に奴隷船に積まれた幾千もの積まれたアフリカンの死体の山の写真だったそうである。そういう史実は今後も絶対に映画化されることはまずないだろうが、俺たちは人間としてそういうことがあった事実は絶対に知っておかなければならないとは思う。その奴隷船に積まれた死体は奴隷労働で病気になって死んでいった者たちの山だったそうだ。日本も今、奴隷労働無理強いさせられている部分があるから時代は違えど考えなきゃいけない部分もあるわけ。

話はそれましたがこの映画のような綺麗ごとだけではないというのが世の常なのだ。