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世界一の東洋王者   村田英次郎

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1980年代というのは日本ボクシング界ではワタシはあまり王者で印象に残っている選手は、現代の2000年代と比べて少なかったです。

ソレは今の現状が充実しすぎているからであり、決して80年代は弱いボクサーばかりって事ではなく技術的な部分(世界戦でのポイントの取り方等)で今ほど有料放送等で世界的ボクシングに触れる機会が少なくて、海外の選手の場合一部のスーパースターの試合しか観れなくて、その他の強豪選手の映像となると、なかなか関係者でも入手困難で初対戦の時に、防衛戦にせよ、挑戦試合にせよ今ほど情報が分かる時代でもないのでホープたちは試合をするうえで苦労したのだと思います。

もちろん、この時代にも渡辺二郎というJ・バンタム級の安定王者が存在しててその強さは図抜けていたし素晴らしいボクシングを披露してくれました。

一方、そういう名王者ではなく世界王者になって1回もしくは防衛出来ずに引退した王者よりも輝いた存在のボクサーがいました。ソレがワタシの中では村田英次郎という無敵の東洋王者でした。

前述した海外の強豪選手の存在は分かっていても、この時代我々ファンは専門誌の情報でしか強さが分からない選手が時のWBCバンタム級王者、ルペ・ピントールとWBA王者、ジェフ・チャンドラーでした。

この両選手と互角に村田選手が対戦したお陰で、我々は世界レベルの最高峰レベルはどういうものかをTVなんかで観戦出来たように思えます。

ピントールは元ジムメートのピンポイントパンチのカルロス・サラテを激闘の末、判定で下した王者なんである程度、実力者なんだろうなと予測はついたのですがジェフ・チャンドラーに関しては長身のアウトボクサーってくらいの印象しかなかったです。

ワタシは村田選手が東洋王者でその後12回防衛するのですが、日本や東洋で無敵といわれていたのでピントールと1980年に対戦する試合は勝つと思ってました。

ピントールも伝説サラテに勝ったとはいえ世界的評価はそう高くないし、十分チャンスがあるだろうと。

しかし結果は日本で行われた世界戦にもかかわらず三者三様の引き分けで微妙でしたけど、ワタシは勝っていたように思いましたがプロのジャッジの公平な採点ですから仕方ないといえば仕方ないのですが。

そして翌年に対抗王者のジェフ・チャンドラーと対戦するが又も引き分けで奪取ならずに、再戦は米国で行われ13回TKO負けします。

そして1983年にもう一度挑戦しますが10回KO負けし、グローブを壁につるします。

確かワタシのおぼろげな記憶ではピントールと再戦したかったのだが、ピントールが対戦を避けて別の日本の選手(ハリケーン照だったように思う?)と防衛戦をしたりしていた記憶があります。

憶測と妄想の世界になりますがピントールと再戦していたら勝っていたかもしれません。

そう思うくらい、引き分けになった試合はピントールがやりにくそうにしていたイメージがあります。

又、チャンドラーとの初戦は確か?ノックダウンを奪っていたと思います。

この人のボクシングはアウトボックスもファイトも両方出来る万能型で、あらゆるスタイルの選手に対抗できるスタイルで器用でもあったしパンチ力もありました。

何よりボクサーに見えないルックスは実兄がジャニーズ事務所に所属しており、本人もオーディションは受かったとか受からないとか真偽は定かではないのですけど、アイドルの様な甘い顔立ちでした。

この人を思い出すたびにボクシングの一つの語源とも言われるBOXの意味が今さらながらに重要なんだなあ~って感じたりします。

つまりボックスを踏みながら、相手のリズムと自分のリズムを合わせたり外したりすることでタイミングを外したり、フェイントをかけたりしたりするわけで、この競技自体がアフリカンや中南米のリズミカルな動きをDNA単位で優位に持っている人種のボクサーが有利に働くのと同時に、ジャパニーズスタイルでありながら華麗なBOXを踏みつつカウンターを得意としていたこの選手をワタシは生涯忘れないし、史上最強の東洋王者の一人であると断言します