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今日も息をしています

蜘蛛巣城

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今、自分は有料衛星放送のWOWOWにて黒澤明全作特集っていうのをやっていまして久しぶりにHDDに録画して秋の夜長に黒澤の映像世界に浸っています。
 
黒澤明という映像作家の特徴を勝手な見解で言わしてもらえれば、一言威厳のある映像美と圧倒的な映画的リアリズムの追求ってのが自分の中では大きい。
 
七人の侍」や「羅生門」の太陽や雨のシーンはまず今の実写映画でも出せない迫力でその作り込みの精緻たるや後進のハリウードの映像作家に多大なる影響を与えたのは映画史が証明している気がする。
 
そしてこの偉大なる映像作家の遺伝子を受け継ぎ、異様なまでの映画的迫力をモノにした映像作家は残念ながら日本では居なくて俺はフランシス・フォード・コッポラと見ている。
 
コッポラのじゃあ全ての映画でそうなのか?といえば大いに疑問ではあるが、少なくとも「地獄の黙示録」は間違いなく、映像や脚本の中でクロサワの遺伝子が組み込まれている気がするのだ。
 
例えば「地獄の黙示録」でジャングルの奥地のカーツの王国に潜入しようとする特殊部隊のウィラード率いる船がいきなり密林の四方八方から槍で滅多付きの攻撃にあうシーンはこの「蜘蛛巣城」のラストシーンから模倣されたような気がするし、カーツ大佐自身米軍の裏切り者でこの映画の三船敏郎扮する戦国武将、鷲津武時もいわば大将、都築からすれば下剋上が当たり前の時代とは言え裏切り者である。
 
ただこの二人が決定的に違うのはカーツは自分の理想の王国を設立するために妻も子供も全て捨てて、現人神たろうとしたのに対し鷲津は嫁や物の怪の言葉に翻弄される闘う男としては少々気の小さい人間臭さである。
 
今さっきまで家来だった家臣がいつの間にか城主や将軍の寝首を掻き、親子兄弟親類であれ私利私欲の為には殺生もいとわない、まさに誰も信用できない己の力のみといった戦国時代に蜘蛛巣城という世にも不思議な城があった。
 
その城の周りはうっそうと生い茂った森があり外部から侵入者があっても決して城までたどり着けず、同じところをグルグル周り物の怪にも遭遇することもあることからまっこと、人智を超えた摩訶不思議な地区であり、城主につかえているベテラン武将でも道に迷うほどのまさに難攻不落の城塞であったのだ。
 
ある時、蜘蛛巣城城主、都築国春は北の館、藤巻の謀反にあい籠城を決意する。
 
そんな中で鷲津武時と三木義明(千秋実)の活躍により形勢逆転の報が入る。
 
都築は喜び二人を招き入れるが、二人は城に着くまでに蜘蛛の巣の森に迷い込み、この世のモノではない老婆に遭遇し老婆の予言では鷲津が蜘蛛巣城主になり、三木の息子が跡を継ぐという。
 
なにを戯言を!といぶかしがる二人であるがこの描写にも現在の政治家の連中もお抱えの占い師のアドヴァイスを受けて政治を行う側面もある事象も多いので、一概に幻想的で夢物語とは言えない部分もある。
 
この報を聞きいれた妻、浅芽(山田五十鈴)は老婆の予言を知れば必ず武時を国春が殺しに来る、その前に国春を殺すべきだと武時をそそのかし、国春が武時が防衛している北の館に家臣を牽きいれた国春の家臣、見張りを痺れ薬入りの酒で眠らせ、武時は槍で国春を射し、謀反を果たす。
 
更に浅芽は自分達に子が出来ないので三木義明の息子、義照ともども殺せと武時をそそのかし、義明を武時は仕留めるが義照は取り逃がしてしまう。
 
そうしている中、浅芽は身ごもるが死産してしまい、武時も三木の亡霊に悩まされながら、今一度蜘蛛の巣の森に行き老婆に助言を聞き、蜘蛛の巣の森が動かぬ限り蜘蛛巣城主が戦に敗れる事はないという予言で安心する。
 
がその森が動き出し、武時は窮地に追い込まれるのであった。。。。。。。。
 
この映画は異様に陰の迫力のあるクロサワが敬愛するシェイクスピアの戯曲「マクベス」を戦国時代に置き換えた作品であるが、クロサワの戦国映画でも醜い人間模様が描き出された傑作と見ています。
 
以前のレンビデ店長の仕事柄、クロサワとペキンパーの映画は全部観て、何回も観ている作品もありますがこの映画も久々に観て、森が動くシーン(円谷の特撮)や鷲津武時に向かって数本の槍が飛んでくるシーンなど異様なテンションの高さとド迫力映像がいつまでも自分の脳理から焼きついて離れない名画である。