気ままに気楽に

今日も息をしています

原爆の子

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1952年に発表された、広島出身の映画監督新藤兼人の生涯のライフワークというべきか、関わっていくであろう原爆問題を扱った作品ではあるが、ワタシは日本、いや世界がコレは考えていかなければいけない命題であり、この映画の訴求するメッセージは永久に語り継がれていかなければいけないと思います。
 
ワタシの高校時代の友人が隣町の中学出身で修学旅行が広島県だったそうなんですが原爆ドームの見学と原爆資料館?っていうのですかね。いわゆるそういう処で色々な写真を観た時は何とも震えが止まらず、女子生徒からは泣き声が多数漏れていたそうです。素晴らしい情操教育を施す中学校だと感心したし、ワタシも息をしている間にいずれは資料館?に足を運びたいし、慰霊碑に手を合わせたいとは思っています。
 
処女作の「愛妻物語」を撮った後、独立プロ“近代映画協会”を立ち上げた彼の自主製作映画の第一弾がこの映画である。
 
ココまで原爆を直接、取り上げた劇映画は史上初であり主演の若き乙羽信子はこの映画の主演を機に女優開眼、大女優の道を歩むことになる。
 
実はワタシは幼少の頃から乙羽信子とは毎日、顔を合わせていました。
 
というのは近所の幼馴染のオフクロがこの人によく似ていまして、いつもあ~おばちゃん、又なんかドラマ出てるなあ~って錯覚するくらい可愛らしい女性でワタシのオフクロの友人でもありワタシも色々ゴンタ(悪い遊びをして)をしてお世話になりました。
 
だからこの女優さんには昔から凄い親近感がありました。
 
お話の方は石川孝子(乙羽信子)は広島市内で幼稚園の女教師していた時期があり昭和20年8月7日原爆投下の中、広島在住だったが家族の中で彼女だけがなんとか生き残った。
 
今は瀬戸内海の小さな島で幼稚園の教師をしているのですがやはり広島時代の教え子の園児が気になり、夏休みを利用して彼らを訪ねる事に。
 
当時の教員仲間であった夏江の協力を得て1軒1軒家庭訪問をしていくのだが、やはりどことも厳しい状況であり又生存していたとしていても、もうウチとは関わらないで欲しいって言う明らかに原爆症の被害に悩まされている親子などもあり、観ていてもなんともつらいものがあったりする。
 
そうやって行脚していくうちに昔、自分の父母の元で働いていた初老の岩吉爺(宇野重吉)に出会ったが彼の息子夫婦も原爆で失い、自身も盲目になり7歳の孫の太郎と掘立小屋で二人暮らしをしていたが、将来を案じた孝子は二人を自分が今住んでいる島の家に引き取ろうと考えて、勧めるのですがなかなか動いてくれない・・・・・果たして二人は孝子の言う事を聞いて島に渡って孝子の家族と暮らしてくれるのだろうか?
 
ワタシは昨年の今くらいの時期に某宗教カルトを糾弾って程じゃないけど、批判した記事を書いた時どうもソコの信者らしいブロガーがソコを肯定するようなコメントを寄せて、目も耳も不自由な世界に身を置いてみなさいそうすれば分かりますってな内容の事を言われた事がありますが、この映画の原作になった子供たちの文集やこの映画は目や耳が不自由であっても無学で無知であっても全世界の人が感動する内容だと思います。
 
もし感動しなくても何も感じないっていう人が居ればその人は人の形をした異形のモノなんでしょう。
 
声高に全世界の人に観て欲しいとかってワタシみたいな人間が言う資格はありませんが、今のTVドラマの延長の様な映画を見る時間があればこういう映画もあるっていうことを特に若い人たちに知っていただきたいですね。
 
全篇、当時の広島でロケを敢行した映像も物凄い迫力で何とも自分なんかは映像にも圧倒されました。