小説家の休暇
新潮文庫、1982年初版発行1988年第8刷
今日は久々に近所のハー○○フにでも行って現代小説の文庫を買ってこようと思っている。
読書量なんて10代~20代前半にかけてと比べて時間もなくなったので激減したが、自分の生涯読了の目標として、司馬遼太郎と三島由紀夫の全作を掲げてはいる。
司馬は単に自分が好きな日本の年代の歴史を分かりやすく書いているのが多いのが好きなのと、三島に関しては亡き父の遺言って程ではないが子供時代、三島は読めって自分は読書を全然しない人が言っていたのでなんでかいな?って思いとどこかで故人と繋がるのかなあ~って部分もあって読んでいる。
とは言っても履歴書や自己紹介なんかで趣味、読書ですって書いたり宣言出来たりするレベルでは到底なく、スポーツ新聞か、雑誌の方が遥かに読んでいます。
装丁がボロボロなのは通勤、通学途上でカバンの中に入れたまま数カ月経過してたために痛んでるだけであり何度も読了しているわけではない。
よく俺なんかよりブログを数年前から展開してる人で、映像や音楽を文章だけで表現している記事を見かけますが、その文体や言葉の選び方、文法はさておき素晴らしいなとは思う。
ソレはなかなか映像メディアや音楽メディアは文章だけでは伝えにくいし、ましてその映画やドラマ、音楽を全く見聴きした事が無い人間にとって文章だけでその特性や特徴を伝えるのは限界もあるし、やはりそういう分野は疑似体験や体感しないと分かりづらいわけだ。
俺もブログを始めた当初、動画の貼り方も何も分からないからだらだら自分の思いみたいなのを伝えたいがための短文を記事にしていた時期がありますが、当然そんなものにはコメントも来ないし、アクセスもあるわけがない。要は文章が稚拙で文才が無さ過ぎるってだけの話だが。
文章を書くのが旨い人や会話が上手な人は概して相当の読書量を誇っている人が多い。
それはおそらく目に見えない事象を相手に伝える能力にたけているということであり、つまりはその経験値が多いから引き出しが多いと思われる。中には例外もいて読書をまるでしない天才的な話術や文才を持つ人間もいますが。
前置きは長くなりましたが、この小説なんですが実は通勤途上や休憩時間で数十回に分けて細かく読んだのであまり頭には残っていない。
三島が休暇をしているときに小説家としての限界というかジレンマを日記調につづってる感じかな。
演劇や映像、音楽にも理解のあった彼氏なので小説を書く難しさ、表現の限界などを述懐しているような内容である。ちょっと映像には否定的な傾向が見られますが多くの小説家や物書きは大なり小なり、ソレはある筈である。
オリジナル脚本ならいざ知らず、原作世界を描ききる映画なんて俺は皆無だと思う。
2時間の尺で原作の世界を描こうと思ったら50ページ程度の短編しか物量として不可能だと思う。
ほんとうに原作の世界を忠実に再現するならば連続ドラマかTV小説って形態でようやっと再現できるのではないかと。
こんな文章を書いていたらアメリカの奴隷の悲哀を描いて日本でも大ブームになった「ルーツ」を想い出しました。
大昔にリアルタイムで観て物凄い感動した記憶がある。メチャメチャ長ったらしいしつこい印象も受けたが。
クンタ・キンテ!!懐かしいのう~