気ままに気楽に

今日も息をしています

ジョニーは戦場へ行った

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この映画は1971年に公開されました。

そして永らくDVD化にならない時期がありまして個人的にはこの映像だけを売って、少しだけ生計のタシにしていた時期があります。

他にもそういう映像を所有しているけど、もう今はほぼDVD化されているので、あまりそういう手法は5,6年くらい前と比較して厳しくなっている様に思います。

それでも結構、オークションを覗くと怪しげな映像を見掛けますけどね、未だに。

でこの映画なんですが自分は少年の頃にTVの多分?初放映くらいなのを観て子供ながらに息をするのも苦しいくらいの何とも言えないドヨーンとした心持になり、この主人公ジョニーに自分がなった夢を見て魘されたトラウマ映画でもある。

1971年と言えばベトナム戦争の激化に伴い、全米でも反戦運動が起きていた時期でそういう意味ではある意味、時代的にタイムリーな映画であったとも言えなくもない。

この映画の原作者であり監督のダルトン・トランボ第二次世界大戦中の1939年にこの原作を上梓するが、反政府文学とみなされついには1945年に事実上の発禁状態にされ、しかも47年にはいわゆるハリウードの赤狩りレッドパージ)にあい共産主義者とみなされ事実上、エンタメ界から追放され逮捕、監禁されている。

俺が凄いこれも勝手な思いつきと思惑なんですが、この映画での舞台、第1次世界大戦とかもっと以前の南北戦争とか、日本でいきますと中世から明治にかけての戦国時代から近代にかけての戦争というのが、割と最近の第2次世界大戦や太平洋戦争(これらもむごたらしいが)なんかよりより肉体的に厳しい状況、つまり痛みを肉体が伴う戦争であり闘いではなかったのか?っていうのがあります。

黒澤映画の殺陣の徹底的なリアリズムの一つにはその斬られた人間が痛みを感じ、観客にも体感させられる画の迫力にあるようにも思うわけ(用心棒、椿三十郎蜘蛛巣城羅生門等等)。

この映画も戦闘シーンは非常に少ないですけど、主人公ジョニーを通して結局戦争というのは物凄い痛みを伴うものであると暗示している様な気はするのである。

お話の方は、主人公ジョニーの独白がほとんどなのですが彼が最愛の恋人カリーンに別れを告げ、第1次大戦の戦場に出征する。

そこで彼は猛烈な敵の攻撃をくらい塹壕に逃げ込むがそこでも爆撃を喰らって、目、鼻、口、耳を失い、壊疽を起こした両腕、両足も切断され脊髄と脳だけが存在する生ける肉塊状態と化す。

体の自由が効かない彼は今の絶望的な状況に悲観しながら過去の健常な状態だった日々に思いを巡らす日々が病室で続いた。

そこで彼はなんとか自分が生きている証としてモールス信号を送るのだが看護婦達は痙攣の発作と勘違いして麻酔を投与して抑え込んでしまう。

だがあるクリスマスの日に新しく赴任してきた看護婦はそのモールス信号を読み取り、彼の胸に「Merry Cristmas」と指で書く。

そして程なく表れたおそらく主治医?が「何が望みか?」とジョニーの額にモールス信号を叩く。

ジョニーがソレに対して答える。。。。。。。。

コレは原作も読みましたけれど、人間の尊厳とはなんぞや?という根源的なテーマが隠れていて感動しました。

が、この映像自体はあまりにも悲し過ぎてそう何度も観れません。。。。。。

そしてこういう作家が居る、もしくは居たって事に俺は少しだけアメリカ合衆国の中にも良心があるのを見た気にはなりました。いや他にも良心はあるんですけどね、だけれども特にコレはですね。

尊厳死であるとか俺が常日頃、息をしているだけで幸せって考えが必ずしもじゃあ極限状態までいけばどうなの?っていつまでもいつまでも深く深く考えさせられる名作です。

ふと8月の終わりに近づきますと、時々この映画を初めて観た衝撃が蘇るんですね。